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主任司祭より

『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』      司祭 森田 健児

2023/09/01


イエスを神と信じる人にとって、ゲッセマネで死を恐れたイエス、十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びは躓きと感じることがあります。

 

また「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブライ書5章7-8節)という記述も私たちを面食らわせます。

キリスト教派の中でイエスを優れた人間ではあるが神ではないと考えている新興宗教などは、このあたりを根拠のひとつにしているようです。

ヘブライ書にはこのほかにも、

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(4:15)

とか

「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(ヘブライ2:17)

という言葉があります。イエスは単に「人となられた」ばかりでなく、苦しみや悩みを知らない特別な例外的な人間ではなく、すべての点において「私たちのように」なられたようです。

 

それはあたかも、全知全能などの神の特権を放棄することをお望みになったかのようであり、白紙の状態で赤子として生まれ、親から守られ、養育され、励ましたり慰めたりしてもらいながらわたしたちと同じ条件で成長なさったかのようです。

 

イエスの公生活は3年という驚くほど短いものでしたが、その前に横たわる30年の私生活は私たちの人生と完全に同化する30年だったのではないでしょうか。罪以外において私たちの人生と完全に重なる人生を歩んでくださったのだと思います。イエスは「人となられた」ばかりでなく、「私たちのようになられた」と言えるでしょう。

そのことを思えば、私たちはイエスに対しいっそうの近さ、親近感を覚え、愛さずにはいられなくなります。

 

ご自分の十字架によって、神の愛が人類に啓示されることを喜ばれる神なるイエス、しかし私たちと同じ人間として、十字架を恐れ、一生懸命十字架に向かって歩んでゆくイエス。

十字架上にて、神に見捨てられるように感じるというまさかの体験をするイエス、「なぜお見捨てになったのですか」という叫びは、イエスを神と信じる多くの信者を躓かせます。しかし「私たちのように」弱さも合わせもった人間として世の救いを成し遂げようとするイエスを、私たちはいっそう愛さずにはいられなくなります。

 

イエスによって単に私たちの罪が償われたというだけではなく、イエスの人生に私たちの人生が包み込まれてゆきます。

 

私たちが苦しみのあまり神に失望を感じ、声を上げるとき、私たちはそんな自分自身を見てさらにみじめになります。信仰が弱く、神に失礼な言葉を吐いたと。

しかしそんな私にイエスはおっしゃってくださいます。「私にはあなたの気持ちがよく分かる。私でさえ見捨てられた気持ちになり、叫び声をあげた。だからあなたは自分に失望する必要は

ない」

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