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主任司祭より

『月のウサギ』         司祭 アンドレア 松村 繁彦

2023/01/02


あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

『今昔物語』や釈迦の前世物語『ジャータカ』にはなぜ月にウサギがいるのかを示した内容が描かれている。それはウサギの崇高な行為“献身”により、長く人々に記念されるためのものであった。次にその内容の冒頭を紹介することにしよう。

 1【一人の老人が風すさぶ荒れ地を杖にすがりながら進んでいる。彼は疲れているのか、ふらつき、そしてその場に倒れて動かなくなった。そこへ一匹のクマが近寄ってくる。続いてキツネ、ウサギもやってきて三匹は心配そうに老人を見る。動物たちは、老人への食べ物を探すために、思い思いの方向へ散っていった。クマは川で魚を捕り、キツネは土中から芋のようなもの掘り出してくる。しかし、ウサギは方々を探すが、何も見つけられない。クマとキツネは、何も持たないで帰ってきたウサギを激しく叱責した。ウサギは老人に火を焚くように伝え、自らも薪を運ぶ。そして自分を食べさせるために火の中へ躍り込んだ。驚いた老人はすぐさまウサギを助けようとするが、時すでに遅くウサギは命を落としてしまう。悲しんだ老人は、死んだウサギを高く捧げ持ち、そしてウサギの魂は丸く輝きながら夜空へと昇っていった。】

この“献身”は人を生かすための“罪の購い”“罪の生贄”としてイエス・キリストが十字架上にかかることと似ている。それは“人を生かし”“人々に記念される”からだ。月のウサギは、私たちにとって「十字架の死を通して示された復活のイエス」を連想させてくれる。

例えば、病の床にある人は“痛みと苦痛”を引き受け、その身を捧げる。ある意味病を引き受けさせられている。その身に起きていることは犠牲なのか?記念なのか?捉え方次第で変わってくる。犠牲と思うと辛くてしょうがない。しかしその病を通して、“人を生かし”“人々に記念される”出来事となれば幸いだ。乗り越えるための信仰は“主に希望を置く”ことなのだろう。でも実際、受け入れるのに時間もかかるかもしれない。

1 月 17 日で 28 年目を迎える阪神淡路大震災の人々はどうだったのか?彼らは多くのものを失った。しかしその思いは将来に向けてその現状を心に深く刻みつけながらも記念とし、元に戻ることはないことを受け入れ、それぞれが体と心の復興にむけて歩んでいる。それ自体立派な捧げものである。そしてその姿を見るものは、心を動かされるものである。

ここで大切なことは今までの私たちの歩みの中でも“献身”がこの身に“記念”として残っているのだろうか?ということ。だから「復活のイエスを仰ぎ見、罪に痛んだイエスを思い起こすこと。」を大切にしたい。
捧げることとは、「これをわたしの記念として行いなさい。」というイエスの指示に従い、他者へ福音を記念し証すること。イエスの愛、まなざし、優しさと厳しさを示していくことこそ、私たちが月のウサギとなって行けるのではないだろうか。私たちは「信仰ロボット」ではない。それぞれの立場、あり方に応じて記念されるキリスト者となって歩んでいきましょう。

 

今年の【十干十二支】は『癸卯(みずのと・う)』、意味は「静かで温かい恵みの雨が降り注ぎ、草木を活き活きと蘇らせる年」

私たちもこのウサギになろうじゃないか。

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