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主任司祭より

『共に“変わる”は共に“愛する”こと』       司祭 松村 繁彦

2022/07/04


以前日本の前田枢機卿親任の準備でバチカンにいた時、私は当時大阪教区事務局長をしていたこともあり“モンセニョール(教会で貢献したもの、もしくは重要な役割を担う聖職者)”を名乗りなさいと現地の神父から指示された。「モンセニョール松村」なんか気持ち悪い。呼称などいらなかった。しかし、名乗ることで入ることの出来ない場所、聞いてはいけない話など多岐にわたり学ぶ機会をいただいた。これはこれでいいか!と。おかげで宿泊先もフランシスコ教皇の部屋の真上で、食事も時々同じ時間となり、あいさつを交わす程度はした。だからなんだ!と自分に問いかける。窮屈な呼称は自分には不釣り合いである。呼称は重荷となると思う性分で面倒くさい。自分のペースで動きたい。しかし周りがそれを許さなかった。早く日本に帰りたいと思った記憶が蘇る。しかし立場が人を作るとも言われ、そこで働かなければならず自分を変えて生きなければならないというのも現実である。

何が言いたいのかというと、自分は他者や社会要求のために変わらなければならない時があるということ。もちろん自分そのものを変えることは出来ないが、愛を求めている人々のために“相手を変える”のではなく“自分から変わっていく”ことそのものが愛の行為なのだろうし、それが与えられた召命なのだろう。イエスが生き続けようと思えば十字架から降りることは出来たが、私たちのために自分の意思を退け、御父からの「杯」を受け入れたのである。多分私と同じく教皇自身が一番よくわかっていることなのだろうとも思った。

世の中には変わりたくなくても変えられた人々もいる。病気になったり差別され弱くされた人々である。イエスはそこに寄り添った。イエス・キリストを知る者としての生き方は、他者を中心に置いて生きるために、変わることが出来る人は変わらなければならないということ。そう思うと私もバチカンでもう少し呼称を受け入れた生活を送れば良かったのかもしれない。自尊・自己中がキリストの本質を引き継ぐのに邪魔なあり方であると改めて感じた体験であった。

今や教会にはいろいろな国籍の方、性別を男女だけで判断しない方、年代、病気を含む様々な身体状態の方、精神疾患・色々な心理状態の方、生活困窮者の方が訪れる。自ら変わることのできない人がたくさんおり、それぞれの方がキリストの慰めを求めている。日本の教会は今や固定化した見知った日本人だけのサロン化した教会ではなくなった。今までの発想では対応するのには難しい時代に突入している。正直私もどう対応していいのかわからない。だからこそ専門家の方の協力を得ながらも多くの人の知恵が求められる。人を愛するためにみんなで盛り上げ、みんなで協力していく教会となっていかなければならない。個人の信仰ではなく教会の本質が問われ始めている中、今こそ皆さんと共に変わっていくことを通して教会を示していきたい。固定概念にとらわれず、福音に奉仕し、殻を破り進化し発展する共同体のための変化こそ、今の時代に必要な課題であろう。

満足な黙想会は開けない今、これらの事を思い描きながら一人一人考えてみましょう。最後にパウロの言葉をヒントのために載せておきます。

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。・・・キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙2章3~8)

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