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主任司祭より

『神父は清いんでしょ?』        司祭 アンドレア 松村 繁彦

2023/03/02


私にとって3月と言えば、地下鉄サリン事件(1995年3月20日)と東日本大震災(2011年3月11日)の出来事が未だに脳裏から離れない。それぞれ意味は違うが、多くの死者を出した出来事だ。人為的なものと自然的なものによって、尊い命が奪われた。そしてすぐには解決しなかった出来事である。実際今でも悲しみの中に打ちひしがれている人が大勢いる。サリン事件は、ちょうど神学校から札幌に春休みで帰って来ていた時期に起こった。東日本大震災の時は大阪におり、関西でも大きな揺れを感じた。その後すぐに支援物資をもって先発隊として現地を視察し、1泊3日(ほぼ徹夜で)で1500キロを車で走り、その状況を大阪に持ち帰った。(違う意味で死ぬかと思った。)1週間前には出張で仙台入りしていたこともあり、どちらも時期がずれていたら巻き込まれていたかもしれない。振り返ればぞっとする出来事であったが、神様は私のいのちを取らなかった。「まだ働け!」ということだろう。それは誰のために生かされたのか・・・。と考えさせられた。その後悲嘆に苦しむ人々の顔を数多く見てきた。サリン事件の被害者遺族や、東日本大震災の被災者とも出会い、心の中で整理できないでいる人たちの声を聴くことになっていった。(ちなみに2005年4月25日の尼崎脱線事故ではその悲嘆者とどっぷりと関わる仕事を引き受けた。)「神様も仏様も助けてはくれなかった。」という声に「その通りですね」と言うしかなかったし、反対の意見を伝えることなどは毛頭許されない。なぜならばその人を否定することになるのだから。悲嘆者にかける声がけと、その心情を癒すためには“うなずき”と傍にいることが大切なのだ。理屈ではない会話の世界にどっぷりと入っていったからこそ、色々な声を聞ける耳が養えた。育ててくれた人たちはそのような人たちだった。彼らは苦しみから、また恨み辛みを持ちながらも這い上がろうとする人たちも多い。泥だらけの環境だ。このような清く正しく美しい世界ではないところに自分が関われたのは、かえって嬉しかった。そして学ばされた。あるとき「神父さんて清い人なん?」と問われ「アホぬかせ!清いわけあらへん。泥だらけが神父じゃ!」と。ついでに「あんたと同じやで!」と付け加えた。関西弁のオンパレード。イエスさんが生きてはったら、きっと最前線におったんやろ~なぁ。泥だらけになって!と仲間の神父たちともよく話していたものだ。

神学生時代から司祭になってわずかな間に、たくさんの人たちの死に直面してきたのがこの3月。大体司祭の叙階式は3月に行われるが、私も司祭生活23年が終わる。安泰を願う司祭も多いが、もっと泥だらけの場所に派遣されて学びながら生きたいと思う今日この頃だが、その夢はまだ先。

忘れている歴史や災害、事故などを紐解いて、改めて祈る事の大切さ。忘れ去ることは最も悲しい出来後で、愛無き思考。皆さんも忘れてしまったことを思い起こしながら、祈り、自分を見つめてみてはどうでしょう。「すべてのいのちを守るため」という教皇のメッセージには、このような現在・過去を通しての“いのち”も含まれると感じます。是非四旬節の黙想の課題として。

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