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主任司祭より

『ある葬儀によせて』    司祭  加藤 鐡男

2021/12/06


その人は、風のようにあっという間に逝ってしまいました。心臓の持病を抱えていました。亡くなるひと月前には親戚の者に、「私はまだまだ、四、五年は生きれそうだ」と話しておられたそうですが、病院に運ばれて、数日で亡くなられました。

その彼女とは、コロナもあって二年以上も顔を合わせていませんでした。亡くなる一週間前に、ふと元気でいるだろうかと思い出していました。亡くなる日の教会でのミサの三十分前に、彼女の親しい人から「今、彼女が危ない状態です」と聞かされて驚いていましたが、ミサの始まる十分前に「今、亡くなられました」との電話連絡が入りましたと、その人から告げられました。ミサの中で彼女の永遠の安息を願い、参列者と共に祈りを捧げました。

彼女の住まいは、当時としては珍しい、温泉の大浴場がセールスポイントの分譲マンションでした。私にも「ぜひ一度入りにいらしてください」と何度もお声をかけていただきながら、とうとう行けなかったのが今にして思えば残念です。

彼女からは三年前に、全てのことは教会の親しい人たちに依頼し「私が亡くなった時の準備をすべてしてあります」と伝えられていましたが、正にその通りでした。葬儀の始まる前には「これを流してほしい」と「私の葬儀のときに」・『聖堂で大好きなポップスを』というタイトルで、御自分の気に入っていた映画音楽、聖歌、インストルメンタルの彼女らしさが伝わる楽曲が、お手のもののパソコンを駆使してCDに入れられてあって、それが聖堂に流されました。葬儀は質素に行うこと、そして司式司祭の希望まで伝えられていたことを知りました。本来なら協力司祭の司式である筈が、その司祭が病気になられて私が司式することになったのも偶然ではなく彼女の希望が打ち勝ったのかもしれません。

そんな彼女でしたから、流行語にもなっている「断捨離」という、物からの執着心を失くして、部屋をすっきりと片付けていたのではないかと思いました。私たちも見習うべき人生のしまい方だったと思います。まだまだと思っていても、その時がいつ来るかは私たちには分かりません。その時が不意に襲って来てもいつでもその準備ができていることが必要なことを、彼女の生き様を想い浮かべて、しみじみと感じ取られました。

最近の私は、パソコンのキーを打ちながら音楽を流していることが多いのですが、次は何の音楽にしようかと思い浮かべているときに、亡くなる二日前のこと、そういえば彼女から何枚かのCDを頂戴していたことを思い出し、タイトルをろくに見もせずに一枚を取り出し、聴きながらキーを打っていました。それが、葬儀の時に「これを聖堂で」と彼女が依頼していたあのCDだったのは偶然ではないかもしれません。

「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです」(エフェソ二章十節)。

今、彼女は白石のカトリックの共同墓地で、帰天された二人の司教、大勢の司祭、信徒の方々と共に眠っておられます。今頃は、親しくなってあちらで御ミサをやって私達にために祈って下さっているに違いありません。

 

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