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主任司祭より

「伝統と習慣」そして平和         東ブロック主任司祭 アンドレア 松村繁彦

2023/07/04


7月は平和旬間の始まる月、8月15日に向けて平和を考える月。そこで平和を考える一視点(松村の脳の動き)を分かち合いたいと思う。

私達は伝統と習慣を履き違えていることが多いかもしれない。そもそも伝統とは「昔から受け伝えられてきたこと」であり、習慣とは「繰り返し行われてきた結果」である。キリスト教にとって大切なのはどちらだろうか。それは弟子がキリストから学び、信仰をキリストの内に確立し、教義として守ってきた普遍の“伝統”が第一である。イエスは宗教を作りたかったわけではない。しかし弟子たちの周りには自然発生的にその教えに導かれた人々が集まりエクレシア(人々の集い=教会)が創設され、聖霊降臨をもって教会はスタートした。人々はイエスを語る弟子たちに引力のように引き付けられたのである。

さて、キリスト教とは、前述のとおり各自が勝手に神に繋がるものではなく、弟子の信仰を受け継ぐ宗教である。独自が理解して三位一体の神に繋がるのではなく、それを理解した弟子たちの教えに追随する宗教である。だから弟子が伝えたことを私たちは大切に保つ。これがキリスト教の伝統的信仰。だから聖書は私たちにとって命綱なのだ。

それでは習慣とは何か。それは受け継いできた信仰を過ごす中で必要とされた経験の積み重ねであり、そこから常習化、つまり変更可能である“習慣”というものが出来上がっていった。

現在の教会はこの両面において成り立っている。しかし時には習慣が伝統と同じように取り扱われることもある。その一例は次のとおりである。

以前他の教会でもお伝えした話ではあるが、典礼聖歌400番「ちいさなひとびとの」という歌がある。私の好きな曲の一つでもある。しかし歌詞を詠んでみると時代錯誤が見受けられる。この曲が作られた時代は問題が無かった。しかし今となっては差別的な表現がある。それに疑問を感じず歌っているのが私達である。ちなみに私はこの曲を使用することには否定はしないが、個人的には歌わない。いや歌えない。是非見直してどの部分が差別的か考えるのが良いかもしれない。ここでは回答を出すことはあえて控えておくが、大切なことは自分たちでどうすべきかを考える事、それこそシノダリティ―なのだ。きっと他にも似たようなことはあるかもしれない。

平和旬間を前にして綺麗な言葉を並べても、足元で差別的なことに疑問を持たないのは、習慣が伝統を壊しているからではないか。私たちの“あたりまえ”が、弟子が理解した福音を無にしていないだろうか。福音を生きるとは、立派なことをすることも大切かもしれないが、それよりもイエスの前に立ち“気付き”、罪人のように自分の胸に手を置いて天を仰いで“悔いる”ことではないか。平和を考えるとは、「主よ憐れんでください」と私たちの習慣を振り返り、常に弟子が理解した福音に立ち返った視点を取り戻すことにある。時々司祭も信徒も習慣を盾に律法学者のようになってしまう。お互いに気を付けたい。主の平和のために。

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