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主任司祭のメッセージ Message from parish priest

『マリアの様に思い巡らしてみた』      司祭 松村 繁彦

2022年06月02日|

私にはトラウマがある。それは小学校の学芸会の演劇中、脇役としてのセリフが飛んで、頭が真っ白になった。この上ない恥ずかしさと居た堪れなさの中、赤面し周りに助けられてその場を凌いだ。まるで重体の状態で両脇を抱えられて救急搬送させられた思いだった。しかしそれからというもの、人の前に立つことに恐怖を覚えていた。その翌年に洗礼を受けたのだが、皆の前に立たされた。教会と言うところはなんと怖いところか!と感じたのは言うまでもない。

そんな私が、今皆さんの前に立っている。人前で司式し、話し、指導する。幼稚園でも園児に話し、過去には大学や中高で教鞭も取った。もっとも私のきらいなことをし続けている。なぜ自分は今皆の前に立っていられるのだろうか?聖母月にマリアの様に思い巡らしてみた。

まだ神学生だった時、当時の東京神学院の養成者だったY神父が口酸っぱく私たち神学生に言い続けた。「あなたたちはゴミ・塵・芥であることを肝に銘じなさい」と。これは決してスパルタでもハラスメントでもない。なぜなら私はそこに深い意味を見出せたから。イエスも泥をすすり、汚いものに向かって歩み続けた。ただただ視界に入らないところを眺め、そこに関わろうとした。洗礼者ヨハネは「神の子羊」と語ったが、決して“偉い”という意味では語っていない。イエスは「仕えるために来た」という徹底的に下僕を選んだ。神学校のY神父の言葉が聖書の“イエスの隣人愛の極み”へとつながり、私の肩の荷を下ろしてくれた。人の上に立つのではなく、人の前に立っていても隠れる存在、より支える役割へ。口の悪い神父だったが、私は今でも尊敬している。這いつくばり、駆けずり回り、泥だらけになり、失敗と思われることを歩む。それが司祭の働きだ。そう語ったのだ。

関西では失敗が次の話のネタとなる。失敗すればするほど周りがそれをいじり喜ぶというおかしな環境に身を置き、それが「おいしい」出来事と捉えられてからというもの、更に気が楽になった。その時は苦しいが、いつか笑える時、笑ってくれる時が来る。完璧を装いたい日本人気質から、ミスを語り、ミスだらけの人こそなお良いという感覚こそ、多くの人に希望を与えられる。神に対する完璧主義を装う律法学者の様な窮屈さを脱却し、ありのままを示せるマリアの素朴さこそ、神にも人にも愛されるのだろう。ある書物では天然な性格のマリア様が描かれていて、より愛着を感じた。清楚よりもおっちょこちょいが愛される。そのぐらいがちょうど良い。だから私は今立っていられる。だから私は失敗するし間違う。それでもいいと思う人とともに歩みたい。

 


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