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主任司祭のメッセージ Message from parish priest

『ただいま』        司祭 松村 繁彦

2022年05月02日|

1977年の復活祭のパーティー。サンドイッチを食べようとテーブルに近寄った時、西牟田神父は大きな体でテーブルの前に立ちはだかり「サンドイッチを食べたいか?」「洗礼を受けるなら食べてもよろしい」と。半ば脅迫とも、圧力ともとれる言葉だったが、欲求に打ち勝てず「それなら洗礼を受ける」と約束をしてしまったのが始まり。それからは教会学校ではSr.阿部の厳しい教え。これも出席表に貼るシールが欲しい一心で我慢して通った。学校の夏休みに入った直後、お母さんたちの作るカレーライスにつられ、食事だけが楽しみの合宿に参加。その最終日の7月23日に多くの仲間とともに洗礼を受けた。洗礼への道は全て欲求に負けた結果。信仰とは反目する欲求の満たしによる洗礼。これをどう解釈するのだろうか、立派な人に聞いてみたい。ただ、それから西牟田神父は私に侍者という働く場を与えてくれた。日本語の下手な西牟田神父が、会衆席にいる信者さんに日本語を指摘され、頭を掻き、照れながら福音朗読、説教をしている主任神父の何とも愛くるしい姿をみて、身近に感じられるようになった。バザーでは一緒に店を回り、運動会では真剣に走り、子どもに勝って、さらに勝ち誇り、神父は人間なのだと気づかされた。教会が第二の我が家として始まった年であった。当時真駒内教会に駐車場が無かったため、みなさん路上駐車だった。母も何度もスーパーに停め怒られた?こともあり、悩んで4~5年後に月寒教会に転籍することとなったのは内緒の話。

(ちなみにその後堅信を受け、大学時代に北26条教会に移り、社会で働き、そこから神学校に行った。受洗教会は真駒内だが、出身教会は真駒内・月寒・北26条のいずれかなのだが、最後の北26条が出身教会となった。)

そんな教会に、およそ40年ぶりに戻ってきた。生まれ育った地に帰ってきたので、すぐに頭に思い浮かんだのは次の聖句。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」(ルカ4:24)小さな頃を知っている人にとって、私の声は届くのだろうか?しかし、本物(預言的ことば)の声ならばきっと届くのだろう。嘲り笑われたら、それは神の声ではなく、私個人の声である。そう一瞬思った。

ところが長い事関西にいた私は、どこか関西の血が混じっている。嘲り、笑われることは「おいしい」事として刷り込まれて帰ってきたので、嘲られ笑われても上等。余計調子に乗るかもしれない。もう気にすることなく、鋼鉄の心を持ってパワーアップした鈍感力の私は、皆さんに好きなことを言うかもしれない。だから皆さんも好きなことを言ってほしい。洗礼を受けた者は清楚で清らかな人間、また上品さに向かうのではなく、より人の声を聞き、話し、より泥臭く、沼から這い上がり、その歩みが自分らしくなるためのものだったはず。イエスも洗礼者ヨハネに洗礼を受けてから、泥臭い活動、汚い中に飛び込んで、ナザレの清い生活とは違うあり方に転換されていった。その行く末は受難と死であり、その結果復活へとつながった。

このようにプライドをイエスは嫌ったのだから、西牟田神父の様に隠さず正直に自分を出して歩んでいきたいと思う今日この頃。だから皆さん、私のことで簡単に傷つき、躓かないでください。

ご復活おめでとうございます。出戻り松村より。


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