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主任司祭のメッセージ Message from parish priest

『わたしの示す地に行きなさい』        司祭  ペトロ 千葉 充

2025年09月02日|

今年の春から夏にかけて、九州や関東、そしてベトナムで親しい友人たちが司祭に叙階されました。全員の叙階式に行くことはできませんでしたが、都合がつく限り叙階式に参列し、新司祭の誕生を間近にしながら、新司祭の歩みのために、精一杯に祈らせていただきました。

叙階式に参列するたびに、それぞれの教区や修道会での司祭職が恵みに満ちたものであると同時に、たくさんの困難も待ち構えていることを思うと、なんだか泣けてしまいます。この心境とは、親心ではありませんが、兄心(このかみごころ)と言うのでしょうか。どうかいつまでも、救いの道を歩み続けることができますようにと、そんな祈りをお捧げしています。

叙階式に参列するもう一つの楽しみは、神学院時代の先輩や同級生との再会があります。それぞれ働く場は異なり、それぞれに活躍されている神父さんたちですが、会えばすぐ共に過ごした時間を取り戻し、冗談を言い合ったり、笑い合ったり、なんだか心がリフレッシュされるようです。次に会えるのはいつになるのか分からないけど、それぞれの置かれた場で喜んだり落ち込んだり、いろんな体験を通して神様と向き合っていることを、お互いに知っているからこそ分かり合える、そんな関係性が続いているのでしょう。

 

さて、司祭に叙階される前には、必ず黙想会に与ることが教会では定められています。自分の時は、親しい先輩の修道司祭に指導をお願いしました。その時の黙想のテーマは、旧約聖書にある「わたしの示す地に行きなさい」という言葉で、この神父様の司祭叙階のモットーだった言葉です。創世記(12.1)に出てくるアブラムの召命の言葉です。後のアブラハムはこの言葉を受けて、それまでの自分の土地を離れて、主が示す地に向けて旅立ちます。それは、全く先の分からない旅ですが、自分に示され、導かれる地で、主を見出すことができるという希望を拠り所として旅立ちます。

「わたし(主)が示す地」とは、あっち行って、こっち行ってと、コロコロと移り変わるものではなく、自らを主に委ねるという意味があるのではないでしょうか。そして、「行きなさい」と言う言葉には、主の言葉に積極的に従うという、能動的な受動の姿勢が求められているでしょう。

このような姿勢は、アブラハムだけではなく、信仰生活にも求められる生き方として、捉えることができるのではないでしょうか。地上を旅する私たちには、自由がありますから、いいとこ取りを選ぶことができるかもしれません。しかし、この自由を神に委ね、自分が今与えられた場において神の摂理がはたらいているのだと言うことに、信頼を置かなくてはなりません。

地上において有限を生きている私たちは、時に神の存在を感じられない暗闇が襲うことがあるかもしれません。病気になったり、何かに失敗したり、思う通りにならない現実を目の当たりにすることがあるかもしれません。それでも、真理は必ず輝き出るという希望で、自分の日常を照らしてみると、それまで見えていなかった恵みに気付くことがあるのではないでしょうか。

私たちが生きていく場、一人一人の生活そのものが、主と出会える場所として与えられています。この日常生活こそが、「主の示す地」なのです。

秋涼の季節を迎え、秋の実りを味わうように、主が示し、与えてくれたこの生活の中で、恵みを深く味わうことができますように。


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