『教会のマニフィカト』 司祭 ペトロ 千葉 充
1「わたしは神をあがめ、わたしの心は神のすくいに喜びおどる」
1聖母の信仰を範とする教会の歩みは、今という現実のなかで、この賛美を唱え続けます。
1マリア様は親類のエリザベトからの「信じたかたは本当にお幸せなことです」と挨拶を受けて、自身の幸いを理解します。天使ガブリエルのお告げを受け、「おことばどおり、この身になりますように…」という従順の上に、心が喜びおどるほどの神への賛美が、生き生きと解き放たれるのです。
1今、復活節、そして聖母月を過ごしながら、僕の心は喜びおどるほどに神を賛美しているのだろうかと、自分の信仰を振り返っています。子供のころから、田舎の教会共同体で育まれた僕の信仰は、この「教会共同体」のなかにおいて、踊るほどではなくても、真の喜びを感じていたのではないかと、そんなことを考えていました。
1わたしたちの神への信仰は、教会の中にあって正式な宣言となるものです。普段、日曜日のミサでは、多くの教会で「使徒信条」が唱えられていることでしょう。使徒たちに由来する「信条」といわれているもので、常に、教会の歴史の中で中心的な「信条」として唱えられ、「最も古いローマのカテキズム」とも呼ばれています。
1今では「天地の創造主…」で始まる信条ですが、これは「クレド(わたしは信じます)」と言われるように、一昔前までは「我は天地の創造主…」と唱え始めていたと記憶しています。子供のころは、この古い訳の使徒信条から始まって、ロザリオの祈りを唱えていたでしょう。
1「わたし」という、自分自身を指し示す「一人称単数」の言い出しは、古代の洗礼式において、洗礼志願者が唱える信仰宣言として用いられる、大切な言葉だったのです。最初から、「わたしたち…」で唱え始めたなら、なんだか他力な信仰に感じられるかもしれません。「わたし」と言い始めることは、自らの信仰をしっかりと受け留める決意が込められているのではないでしょうか。そして、この信仰が「わたしたち」という共同体のなかで、みんなが見守るなかで宣言することにより、真の信仰宣言として受け入れられたのです。
1他のお祈りの文言と違って、何度も「~を信じます」と続く文言は、気づくと単なる言葉の暗唱になってしまいがちな自らの信仰を反省しながら、特に主日ミサで、教会共同体のなかで唱えるたびに、「わたし」の信仰を、「わたしたち」のなかで唱える喜びを味わいたいと思います。
1共同体の中で育まれる信仰は、時には波風の立つこともあるかもしれません。しかし、そのなかで「わたし」の信仰は浄められるのかしれません。個人の信仰は、独りよがりにならず、共同体のなかで育まれていくのです。
1マリア様がエリザベトの前に立って、マニフィカトを歌ったように、他者との関りのなかで、心は生き生きと喜びおどります。このように、聖母の生涯は、いつも誰かが伴にいました。ナザレでも、都上がりのときも、カナでも、そして十字架の下にあっても。
1わたしたちも教会共同体において、ともに歩む喜びを感じたとき、声高らかに「教会のマニフィカト(賛美)」が歌われるのではないでしょうか。