『ご聖体 ― 人知と想像を超える恵み』 司祭 ミカエル 森田 健児
「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(ヨハネ6:52)
1ユダヤ人たちは議論しあいました。イエスが「肉」という言葉を使い、食べるという言葉にも特別な単語を使ったので、「みことば」のことを比ゆ的に言っているのではなく、本当にご自分の肉を食べさせることを意味していると理解したからでした。12人の弟子たちでさえ驚いたでしょうし、後のご聖体の教えを知らなければ私たちだって驚いているでしょう。
「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」(同6:60)といって多くの弟子たちがイエスを離れ、再び共に歩まなくなりました。今までにこんなことがあったでしょうか。12使徒以外にも多くの弟子たちがいたことは聖書に書かれていますが、その多くが離れてしまったのでした。もし比ゆ的にみ言葉を聞いて実行することを言っているのであれば、弟子たちが去る前にそのようにおっしゃればよかったのですが、イエスは新たに大きな恵みについて語られたのでした。
「あなたたちも去っていきたいか」(同6:67)。イエスは12人におっしゃいます。人間の想像を超える恵みについて語ったので、理解できる者はなく、ただ信じることでしかついていけませんでした。ペトロは答えます。「主よ、私たちは誰のところに行けましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。」(同6:68)
「どうして自分の肉を我々に食べさせることができるか」。イエスについていった12人には、この「どのように」が最後の晩餐で明かされました。イエスはパンとぶどう酒を取り、これをご自分の言葉で聖変化させ、ご自分のおん体とおん血にします。身近のものを用いて感覚的に抵抗のない食べやすく飲みやすい形態で私たちにご自分を与えてくださいます。聖変化の資格を使徒たちに与え、歴史の中に、そして世界へと受け継がれてゆきます。この聖変化という方法も使徒伝承の中で教会に受け継がれてきたものです。
「肉は何の役にも立たない」(同6:63)と主はおっしゃいます。ご聖体は単なる肉片ではなく、主のご霊魂、神性と人性も含まれます。しかし肉のおかげで、イエスは私たちに限りなく近い存在となります。聖体は主のおん体、ご霊魂、神性と人性からなるといっても、あたかも化学物資の原子模型のようなものではありません。「『全キリストが、真に、現実に、実体的に』現存しておられます」(カトリック教会のカテキズム、1374番)。
1簡単に言えば、2000年前にこの世に来てくださった神であり人であるイエス・キリスト、おん体もご霊魂も、神性も人性も何も欠けることのないイエス・キリストその方そのもの」と言えるのではないでしょうか。私たちの五感で把握できるものではなく、信仰によってのみ把握されます。
「父からお許しがなければ誰も私のもとに来ることはできない」(同6:65)。ご聖体への信仰は人の理解と想像を超えているので、神の助けがなければ信じられないでしょう。聖体を信じる信仰、これも私たちが神から恵みとして受けているものです。