『聖母月を思ふ』 司祭 ペトロ 千葉 充
1御復活祭に彩りを添えるように、北海道では5月に入ると一斉に花が咲き始め、春本番を実感しておられるでしょう。教会ではこの5月を、伝統的に聖母月として祝ってきました。聖母月の信心は、近世になってから、特にイタリアで盛んに祝われてきたそうです。
1四季折々の中で、5月という季節は、春の訪れのなかに自然の美しさを実感させてくれ、また主の復活を喜ぶ月でもあり、このような希望と喜びの月を、私たちの信仰生活に身近な存在である聖母マリアに捧げようと、教会の中で自然と生まれてきたものなのでしょう。
1友人の神父様や神学生達と、聖母マリアについて分かち合うと、皆それぞれに自分の中で大切にしているマリア様への思いを語ってくれます。神学的な考察というよりも、信仰の同伴者として思い描く、そんな話を興味深く聴かせてもらっていました。
1このように身近な存在でもあるマリア様について、皆様はどのような姿を思い描いているでしょうか?
1ナザレのマリア、幼子を抱くマリア、急いで山里に向うご訪問のマリア、少年イエスを必死に探すマリア、カナの婚礼の席でのマリア、十字架の下で悲しむマリア、高間で使徒たちと共に祈るマリアなど、また、無原罪のマリア、被昇天のマリア、他にも世界中で崇敬されているマリア様の姿もあるでしょう。
1「マリア様ってどんな方ですか?」
1聖書に記されているマリア様に、特徴的な姿があります。それは、思いを巡らしておられる姿です。天使ガブリエルからお告げを受けたとき(ルカ1:29)、羊飼い達の訪問を受けたとき(ルカ2:19)、ナザレでの暮らしのなかで(ルカ2:51)、様々な出来事を思い巡らす姿が聖書に記されています。その一つ一つの場面では、素晴らしいことが隠されているけれど、同時に簡単には受け入れることができない、人間の理解を超える出来事でもありました。しかし、どのようなことも自分の知識と価値観だけで判断せず、時が来るまで心に納め、信じたことを待つという態度が、思い巡らすという言葉にあらわされているでしょう。
1「信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45)
1マリア様はおとめでありながら、子を宿し、産み育て、その子が神の子であることを信じ続けます。十字架に至るまで、忠実に信じ続けたのです。これは、能動的な受動の姿勢です。隷属的にではなく、「信じる」ということに対して自らの意志で応えたのです。
1この「信じる」という行為は、天使ガブリエルのお告げを受けたとき、ただ一度だけ信じたのではありません。ナザレでの生活のなかで、イエスの公生活のなかで、そして十字架のもとに佇むときも、いつも信じ続けたのです。
1「あなたの母です」(ヨハネ19:27)
1神の母として、信じ続けるマリア様が「教会の母」とされたことは、当然のことと言えるでしょう。「主が自分のからだとして形成した」(教会憲章52)教会は、御子との一致を保ち続ける聖母マリアと特別な絆で結ばれています。神の子である我が子について、いつも心に留めて思い巡らす聖母マリアは、キリストの肢体としての教会についても、いつも心に留めてくださるからです。教会に対する聖母マリアの母性は、母親が子供に対して抱く思いと、子供が母親に対して抱いている思いの、双方間における関係性を保ち続けます。
1誰にでも産んでくれたお母さんがいます。母親の胎以外から生まれることはあり得ません。また、一人の母親に複数人の子供がいたとしても、この母親は子供たち一人一人との個人的な関係性を保ち、その一人一人に対して母としての完全な愛が成立しています。この母子としての人格的関りは、年を重ねても変わらず続きます。自分がどんなに年を取っても、お母さんはいつまでもお母さんであり続けるのと同じように、教会の母マリアは、今も私たち一人一人のお母さんとして、「信じる幸せ」という信仰の模範を示し続けています。
1現代社会のなかに置かれた教会は、季節の移ろいよりも早く過ぎてしまう時代の流れに立たされています。いち早く、簡単に答えを求めてしまいがちな時代ですが、時にはマリア様がそうであったように、私たちの信仰生活を思いを巡らし、信じて待つという時の流れを味わう、そんな季節として、この聖母月を過ごしてみては如何でしょうか。