『7の70倍』 司祭 ミカエル 森田 健児
1イエスは「何度まで兄弟を赦すべきですか、7回までですか」とペトロに聞かれて、「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」という衝撃的な教えをお教えになります(マタ18章)。そしてその理由をたとえ話でお話になるわけですが、私たちは神から考えられないほど大きな赦しをいただいているというのが理由です。この教えに挑んで生きる人は決して少なくありません。
1たとえ話の中で1万タラントン(今のお金で6000億円)の借金が返せなくなって王(神を指す)に呼ばれた家来(私たちを指す)が、王のあわれみを受けてすべて赦してもらい、だから家来も同じように人を赦すべき、というものです。このたとえ話では大借金を一度だけ赦してもらうわけですが、神はその後も私たちに対し数え切れないほどの回数を赦してくださっているのではないでしょうか。
1イエスはご自身が実行なさらないことは私たちにお教えになりません。敵を愛しなさい、という教えもそうですし、最後の晩餐のときに始めてお教えになった「友のために命を捧げることほど大きな愛はない」(ヨハネ15章)という教えも、ご自身が実行なさいました。7の70倍という教えもイエスが日々実行なさっていたに違いありませんし、おん父の心でもあるのではないでしょうか。もちろん口先だけの回心は許しの対象にはなりませんが、心から悔い、改めようとする真摯な気持ちを何度でも受け入れてくださるに違いありません。
1ある箇所では「一日に7回あなたに対し罪を犯しても、7回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17章)ともおっしゃっています。私たちも一日に7度も神に背くようなことはあるのかわかりません。たとえそのような事態が不幸にして生じたとしても、すべてが終わったと思わず、悔い改める希望を失ってはならないと、励ましてくださっているようです。
1時代により、また社会によっては誘惑が多く、間違った価値観が良いものとされ、悪の罠に陥ることもあります。諦めて正しい生き方を放棄することなく、何度でも立ち上がって、何度でも一からやり直す気持ちで進むことができるなら、希望が持てます。それを支えてくれるものが神のゆるしではないでしょうか。
1イエスは罪深い女がイエスの足を涙でぬらし、髪の毛で拭いた場面で、それを心の中で批判したファリサイ派の人にこうおっしゃいます。
「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7章)。
1イエスは罪の多さをほめることは決してありませんが、多く赦していただいたという自覚は、神に対する多くの愛を生む、とおっしゃっています。
1誠実に信仰に生きたいという願いを萎えさせるような社会の中で、希望を失うことなく、諦めることなく、何度でも立ち上がって歩んでゆきたいものです。神もわたしたちのことを諦めることなく、支えてくださるでしょう。