ロゴ

主任司祭のメッセージ Message from parish priest

『信じること、祈ること、生きること』     司祭  ペトロ 千葉 充

2024年09月02日|

九月を迎えると秋へと季節が巡り、夏とは違う、なんだかゆったりとした空気感が漂う感じがします。この時期、ゆっくり散歩をしてみたくなったり、喫茶店に立ち寄りたくなったり、学生の頃からそんな気分にさせる季節でした。

また、九月に入るとそれぞれの教会でも敬老の日に合わせて、ささやかなお祝いを準備されていることでしょう。教会で出会うご高齢の方々と、ミサ後のわずかな語らいの一時に、昔の教会の出来事や、入信に至った経緯など、いろいろと聞かせていただく時間を楽しみにしています。ご高齢になって、ゆったりとした時間の流野中で、いろいろな事を見ておられるのでしょうか、穏やかさと豊かさを感じ取ることができる一時となっています。

祈るとき、自分の心に「ゆとり」を保てているだろうか?

最近、このことを思い巡らしながら、自分の生活を振り返っています。毎日の「朝の祈り」の時も、心の中は随分と慌ただしいように感じます。個人的にいろいろと祈りの意向があって、それを限られた時間の中でいっきに押し詰めて、なんだか騒々しく終わっているような気もいたします。もちろん、嘆願の祈りも大切な祈りなのですが、時々には落ち着いた、静寂の時の流に身を任せるような、そんな祈りの時を大切にしたいものです。

まだ神学生のとき、東京で出会った方から「どのようなお祈りをすれば良いのでしょうか?」と尋ねられたことがありました。それに対して、「ご自分を神様の前に差し出してみる」、そんなつもりでお祈りしてみるとどうでしょうかと応えてみました。

神のみ前に差し出される自分とは、ありのままの自分の姿を、しっかり認識することにもなるでしょう。僕自身は、特別に祈りについて語れるほどの知識も経験もありません。あくまでも、自分が「そうだといいな」と思う、理想を語ったまでですが、『祈りの法は、信仰の法(lex orandi, lex credendi)』という言葉があります。祈りと信仰とは互いに一体であることを教えてくれる言葉ですが、祈ることと信じることが一つとなって、私たちを形成していく、そのように受け留めています。

単純に「祈る手法」だけなら、言葉を声に出して唱える「口祷」や、沈黙のうちに祈る「念祷」があるでしょう。また、共同で捧げる祈りとして、「典礼」も祈りの手法として見ることができます。その際に、身体の動きで祈りを捧げること、例えば「手を合わせる」、「十字を切る」、「お辞儀をする」、こうした所作も祈りの手法と言えます。

私たちは、いつも声や身体を通して、様々な手法で祈るのですが、そこに意思が伴っていることが大切なのだと思います。私たちは知性や感性を用いて、何かを考え、何かを感じながら生きています。そして、この知性と感性によって何かを決心します。人生の大きなことから、生活における小さなことまで、何かを選ぶということは、生きていくことの一部となります。こうした選びのときに、私たちの意思は働いているでしょう。生まれたばかりの赤ん坊も、年を経て体力が劣っても、最期まで意思の働きは続いています。意思を通して生きていることが証しされると言っても、過言ではないでしょう。

さて、この意思の働きが、信仰と祈りに非常に大きな関係があるように思います。祈ることとは、「心を神に向ける」とか、「神との深い交わり」という心理的な理解だけに留まらず、私たちの意思が伴った行為として、生きた人間としての祈りなのだという、実存的性格をもった祈りこそ、私たちキリスト者にとっての「祈ること」なのだと思います。

実存的な理解をもって祈りを考察してみると、そこには当然「信じる」ということが一体となっています。そして、信じることと祈ることが「生きている」ことと結ばれることによって、信仰と生活が一致し、私という存在が一つの大きな祈りになるのではないでしょうか。

「何をしたか」といったことを追い求める成果主義ではなく、どのような意思によるのかという視点で、生活を振り返ってみるとき、自分の姿を深く見つめることができるでしょう。そして、自分の意思のはたらきのなかに、信仰が伴っていくのではないでしょうか。

時々に、ゆったりとした時の中で、このような自分を見つめてあげる時間をもちたいと思っております。


司祭メッセージ一覧へ


ページトップ
MENU