『鬼にお尋ねします。永遠とは何ですか?』 司祭 アンドレア 松村 繁彦
1先日あるアニメを見ていて気付かされたことがあった。
1そこでは人が鬼に対して次のようなセリフが語られた。「君は『永遠』を知っているか?」との問いであった。自分にも向けられたのかとハッとさせられた。もちろん私は鬼ではないのだが、文化人類学において鬼や妖怪などは人間の弱さの中から生まれたのではないかとの説もある。だから私の弱さ(人の中にある鬼性・妖怪性)に対して語られたと思えば、あながち自分に語り掛けられた質問といっても過言ではないだろう。
1さて、弱い人間にとって、『永遠』とは強さを示す一つのキーワードであり、それは“不死”とか“変化しない”という人間的な強さへの憧れではないか。“変化しない”とは今を変えることが自分にとって悪であるとの思いなのだ。それは【不変】を愛することではあるが、【普遍】を愛することではない。ご承知のように【カトリック】=【普遍】という意味である。つまり【普遍】には変化はある(典礼や新しい教義等)が、永続性は別のところに存在する。
1だんだん難しくなったので話を元に戻そう。アニメの中で心を打たれた答えは次のとおり。「永遠とは人だけが持つつながりと絆」と。時間の中で鬼も人も死をもって一つの区切りを迎える。しかし鬼は身勝手でそれぞれ単独で動くものであり、そこに愛による絆は存在しない。だから鬼の頭が死ぬと残党は散るだけであり、すべていずれは成敗される。しかし人は違う。一人の人が死んでも、それを受け継ぐものが現れる。思いが引き継がれる。愛の絆を持つ人類は、必ずそれを受け止めて生き、伝えていくことで途切れることはない。実際私達のキリスト教は弱まる時代や時期があっても途切れてしまうことは歴史上なかった。キリストの意志を命を懸けて繋ぎ、その絆が存在する以上私たちは次へも続く。これこそ永遠なのだろう。愛の絆はキリストが父なる神から受け、私たちに伝えてくれたもので、『永遠』=「愛の絆」なのだ。この『永遠』は神の中にあり、神のもとから私たちに与えられた愛そのものでもある。そして死しても神との絆が残る。それが永遠のいのちとなるのだろう。私たちは今後もそれを生かせられるのだろうか。
18月に入ると日本の教会は「平和旬間」を迎え、また終戦を思い起こす。「人のつながりと絆」という特性を代々持ちながらも人は戦争を行う。ヨハネ・パウロ二世の語った「戦争は人間の仕業」と言うけれど、人間の中にある「鬼性・妖怪性」による仕業なのだ。そこには人を鬼化・妖怪化させる何かがある。「人の思い」「人の絆」を無視するもの。自己防衛(自己生命尊重主義=死への怯え)だけに力を注ぐもの。それこそ諸々の欲に対する無防備な私達。平和を築くためには、私たちのあらゆる欲に対する回心が出発点であり、具体的な取り除き作業が社会平和活動なのだ。平和を求めるとき「平和活動」だけに留まる教会ではなく、人間が持つ醜い部分(鬼性・妖怪性)に目をやって、欲や怯えから解放され、それを語り部として次に伝えていける平和旬間になってくれればと願っている。