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主任司祭のメッセージ Message from parish priest

『イエスの渇き』     司祭 ミカエル 森田 健児

2024年07月02日|

最近教皇フランシスコはミサに関する書簡『私はせつに願っていた』(カトリック中央協議会)を出しました。表題は、ミサの始まりと言える最後の晩餐を、イエスが弟子たちとともにするときにおっしゃった言葉です。

「苦しみを受ける前に、あなた方とともにこの過ぎ越しの食事をしたいと、私はせつに願っていた。」(ルカ22章15節)

教皇はこの書簡の中でたいへん印象的な言葉を使っています。ミサの中でイエスが私たちをゆるし、いやし、救い続けることは「十字架上で宣言されたように、私たちへのご自分の渇きをいやす手段なのです」(同書18ページ)、と教皇は述べます。

イエスは十字架上で「渇く」とお叫びになりました(ヨハネ19章)。フランシスコ教皇はこの言葉を、「私たちへのご自分の渇き」と表現しているわけです。そして、ミサの中でご自分のみ言葉を私たちに与え、おん体とおん血を糧として与え、私たちを満たし、ゆるしや癒しを与えることによって、「私たちへのご自分の渇きを癒す」ということなのです。これは驚きの表現と言えるでしょう。

私たちがイエスに振り向き、イエスを信じ、イエスに従うことでイエスは渇きが癒されると言っているのではないのです。イエスが私たちに与え、許し、満たしたときに、イエスの渇きが癒されると言っているのです。フランシスコ教皇はかつての公文書の中では見られなかったような表現をすることがありますが、この度もそのひとつであるように思います。

今の時代は多くの人が物質的にもそうですが、霊的にも飢え、渇き、苦しんでいます。そのような飢え渇きをご覧になって、イエスは心が潰れそうな思いなのではないでしょうか。私たちの飢えを満たし、渇きを癒したい、という思いがイエスの飢え渇きだとも言えるでしょう。ミサの中で私たちの飢えを満たし、渇きを癒すことができることで、イエス自身の飢えを満たし、渇きを癒していることにつながるというわけです。教皇が「十字架上で宣言されたように、私たちへのご自分の渇きをいやす手段なのです」とおっしゃるのはそういう意味です。

またこの文書の中では他にも印象的な言葉があります。私たちがミサに参加する理由の第一は、私たちを集めたいという「キリストの強い望みによって引き寄せられる」(同書11ページ)のがそれだと言います。またその望みに対する私たちの応答は、「キリストの愛に自らを明け渡し、キリストによって引き寄せられるがままにすること」(同11ページ)だと言います。この「引き寄せられるがまま」というのが大変印象的な言葉です。吸引力は私たちよりも、むしろキリストの心のほうが強いのです。

困難を極める時代にあって、私たちを愛さずにはいられない、救わずにはいられないという神のあふれ出る思いは、教皇のあふれ出るような言葉によって私たちのもとへ届けられます。

私たちが主であるイエスに渇きを癒していただくことによって、逆にイエスの渇きを癒すことができるのであれば、これほど幸いなことはないといえるでしょう。


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