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主任司祭のメッセージ Message from parish priest

『マリアに涙を流させない』     司祭 松村 繁彦

2022年09月02日|

典礼聖歌400番の『ちいさなひとびとの』という聖歌について一言。20年ほど前にこの曲に触れているときに一つの疑問が生じた。それは大先輩の神父様の一言がきっかけだった。作詞した時代には一般的だったその内容を今も歌い続けていいのかという訴えだった。確かに歌詞には「みなしごたちは寂しく~」や「国を出た人に家が無く~」と断定的に語られている。私が担当していた教会のフィリピンの御婦人からはある日「私たちには家があります」と笑いながら声を挙げられたことがあった。また施設の子供からは「僕たち寂しくないよ」と笑っていたが心の叫びにも聞こえた。作詞当時は代弁することが正義だったのかもしれないが、今となっては日本人による思い込みの差別かもしれないと気づかされた。このように私たちは古きを重んじて、知らず内に差別を行っている可能性がある。難しい時代である。しかしそこに踏み込むことこそ他者を積極的に愛することを考える行為でもあるのだろう。

その後私が異動する教会の典礼係にはこの事を分かち合うように伝え続けてきた。「皆さん!結論はどちらでも構わないが、皆さんで「信仰と希望と愛」の“徳”に従い方針を決めていきましょう」と。そうすると時間をかけて分かち合い、悩み考え「改めて目からうろこが落ちた」と、私が担当してきた6つの教会が、いくつかの聖歌を演奏はOKだが歌うこととしては選択しない方針を定めてきた。私にとって大好きな曲も中には選ばれており残念に思いながらも、それ以上に“慣習ではなく心からの祈り”として曲を選択するようになっていったことに喜びも感じた。聖歌を選ぶ大切さ。まさに聖歌が共同体の祈りになっていった瞬間だった。

人類の歴史に聖母マリアが各地で出現されるとはどういうことだったのかを考えると、その時代の平和のあり方に立ち止まり涙したからではないだろうか。人類の進む方向に神様が疑問を感じたからマリア様を送られたのではないのだろうか。それは一般社会だけに留まらず、カトリック教会に対しても意識の改革や変革を望まれていると感じざるを得ない。実際に誤謬性を持たないヨハネ・パウロ二世によるカトリック教会として歴史に対する謝罪、かつての日本の司教団のハンセン病患者に対する差別的と取られる行動も、時代の流れに負けたカトリック教会として問題とされてきた。現在の司教団も歴史の反省に真剣に取り組んでいる姿をまざまざと見ていると、それはマリアに涙を流させないというマリアへの崇敬の努力そのものであると感じる。

キリストの平和を私たちの平和へと実現するためにその都度“選択”していかなければならない。流れではなく、今一度丁寧に気づいたことから私たちも立ち止まって考えてみようではないか。


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