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主任司祭のメッセージ Message from parish priest

『アシジのフランシスコの思い』    司祭 松村 繁彦

2022年08月02日|

以前関西で赴任していた教会では、聖堂、信徒館、司祭館、納骨堂はそれぞれ別棟となっていた。いつも司祭館から出入りするためには一度外に出て、信徒会館を通り、正面出口から庭を横切って正門から外出していた。司祭館の横には納骨堂があり、信徒館との間には汚れないようにスノコ2枚が置かれていた。

ある冬の夜、司祭館でくつろいでいるとスノコが軋む音がした。教会あるある話で、いろいろな霊的なものを教会は引き寄せるという話がある。北1条でも2000年の私が助任時代、夜中に告解部屋のブザーが鳴った。当然誰も居ない。亡くなった方の霊が赦しを願ったのだろう。洞爺丸台風の時には、ブザーが鳴りっぱなしだったという話も聞く。歴代の主任からそのような奇妙な話は多く聞いてきたため、その後はさほど驚かなくなった。

スノコのきしむ音。霊が訪れたのかとさほど気にしなく、主の祈りを唱えてあげることにした。しかし、ある時遠くでサイレンが聞こえる。霊よりも怖い生きた人。翌日新聞である事件を見たとき、近所での出来事。その事件から暫くの間はスノコの軋む音を聞くたび、霊の仕業か犯罪者の仕業かと、多少びくびくするようになった。それから間もなくしたある晩にも軋む音がした。翌朝起きると窓の外はわずかな雪ではあったが一面が薄っすら白くなっていた。北海道を思い出し懐かしさがこみあげ、意気揚々と朝ミサに向かう。玄関を開けるとスノコの上にも雪が積もっていた。その時すべてが明らかになった。スノコに積もった雪の上には、霊の足跡でもなく、人の足跡でもなく、猫の足跡だった。私は何におびえていたのだろうかと、自分を笑った。それ以上に積もった雪が事実を明らかにしたのであった。これこそ空からの“しるし”であったと大したこともないことに感激したものだ。

「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」(1コリント4:5)と。

私の小さな肝っ玉を憂いて、神様が雪を降らせ知らせてくれたのだろう。今まで軋んだ音、猫の横切ったスノコを通して、一人暮らしの孤独な司祭に慰めを与えてくれたのかもしれない。それを勝手に勘繰るのも人間。更に怯えるのは小さな人間。神に守られているという自信はいつも揺らぐ。でも悪く考えるのもよく考えるのも私たち自身に与えられたもの。それなら怯えるのではなく、信じて感謝できたらどんなに素敵だろうか。まだまだすべてのものを感謝と捉えられない自分に、良い機会が与えられたと感じた出来事だった。

日常生活の中には、私たちの信仰を養成する出来事がある。大切なのは一つ一つの出来事を神様とつなげて黙想することではないか。難しい神学書を読んだり、高名で立派な方の講演を聞いても、それを受け止めきれる器が無ければ無駄である。それよりも誰でもできることに忠実に向き合う事の方が良いように感じる。コロナだからこそ、機会が奪われたのではなく、各個人の中にあることが題材となって神へのつながりを太くする良い機会を与えてもらったと感謝して進むことは、時機に適っているのではないだろうか。。

平和の使者・アシジのフランシスコの霊性は、コロナをも見つめる視点があると感じたからである。


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